Arc de Triomphe とパリの歴史軸
凱旋門はパリを代表するモニュメントで、ナポレオンが作らせたものが有名です。
エトワール広場の凱旋門は1836年に完成しました。パリにはもう一つ、ルーヴルのところにカルーゼルの凱旋門があります。こちらは1808年に完成しています。どちらもナポレオンの勝利の証として建造されました。今、この二つの凱旋門はシャンゼリゼ通りを挟んで「パリの歴史軸」を結んでいますが、建設当時は、テュイルリー宮殿があったため、見通すことはできませんでした。
写真は凱旋門の上からルーヴル宮殿の方角を撮ったものです。中央がシャンゼリゼ通り、遠くにガラスのピラミッドが見えます。その横にカルーゼルの凱旋門の上部が見えます。
反対側に目をやると、歴史軸の延長上に、新都心ラ・デファンス地区のGrande Archeグランダルシュ(新凱旋門)まで見通せます。
ところで、凱旋門はヨーロッパのあちこちに見られます。古代ローマの時代にコンスタンティヌス帝の時代に作られたものが有名です。ローマのコロッセオの近くに建てられたものでパリの凱旋門のモデルにもなったと言われています。ただし、この凱旋門は3つのアーチがあります。
南仏のオランジュにも凱旋門があります。こちらは古代ローマの時代にガリアを征服した記念に建てられたものです。1世紀に作られました。この凱旋門も3つのアーチです。
近代になってからの凱旋門としては、パリのエトワール広場とカルーゼルの凱旋門以外にもフランスにはかなりの数の凱旋門があります。古いものから、ブルターニュのシザンにArc de Triomphe de l’enclos paroissial de Sizun (1585-1588)という凱旋門があるそうです。これは少し特殊なものかもしれません。パリにはPorte Saint-Denis (1672)、Porte Saint-Martin (1674)、モンペリエにあるArc de Triomphe (1691)、リールにはPorte de Paris (1685-1692)があります。17世紀に作られた凱旋門はルイ14世の偉業をたたえたものです。
ボルドーのPorte de Bourgogne (1750-1755)、ヌヴェールにあるPorte de Paris (1761)。ナンシーにはなんと4つもあります。Arc Héré (1755)、Porte Sainte-Catherine (1761)、Porte Stanislas (1761)とPorte Désilles (1782-1784)。他に、ディジョンのPorte de Guillaume (1788)、マルセイユのPorte d’Aix (1823-1839)、メースのPorte Serpentine (1903)にもあることがWikipédiaには記載されています。
さらに、これは実際には立てられなかったものですが、パリのナシオン広場に凱旋門を建てる計画があったそうです。1670年に一度礎石が立てられたもののその後撤去されました。1862年にはナポレオン3世の偉業を讃えるために凱旋門を建てる計画から実物大の模型が造られました。
凱旋門は本来の意味としては古代ローマで戦争に勝利した軍隊を祝うことを目的とした建造物でした。日本語の「凱旋」もその意味で使われています。しかし、その後は、君主の入城やイベントの記念に建てられるものが多く、また、国王の偉業を記念したものも多く作られるようになります。凱旋門は、石造りの建造物として後世に残るものがほとんどですが、実は、最初の頃は、木造の仮設のものが中心でした。木造のアーチは、戦勝記念として昔から度々造られてきました。国王が来訪するときの歓迎の意をもつものや祝典行事の一環として作られることもありました。このようなものは行事が終われば取り壊されています。
ところで、凱旋門のフランス語はArc de Triompheです。「勝利のアーチ」という意味です。
勇者を迎えるときにアーチの下をくぐらせるという伝統は、今でもあちこちで見られます。マラソン大会などで「エアアーチ」として仮設のアーチがイベントで設置されることもあります。また、24時間耐久レースで知られるル・マンのサーキットには、タイヤメーカーのダンロップ社の名がついた有名なアーチがあります。
ウオーター・サルートは、空港で初就航の時などに、複数の消防車両からの放水で水のアーチを作り、その下を航空機が通過します。船舶に対して進水式の時に行われることもあります。
日本でも小学校の卒業式などで、在校生が向かい合わせになって手でアーチを作り、その下を卒業生が通って入場あるいは退場するというのもこの儀式の変形と言えるかもしれません。
次回、凱旋門ではこの「アーチ」について深堀してみましょう。
MH