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ルーヴル美術館は宮殿だった

ルーヴル美術館は最初から美術館だったわけではありません。中世にできたルーヴル城がルネサンスの時代に宮殿になり、ナポレオンの時代に美術館になりました。

今回はその辺りを探ってみましょう。

ルーヴル宮殿は17世紀、アンリ4世の時代に「大計画」が建てられ、中世のルーヴルを取り壊し、新たな宮殿を建設することになります。アンリ4世は芸術家たちを庇護し、芸術作品を次々と手に入れていきます。ルイ13世はルーヴルにはあまり関心を示さず、もっぱら狩に夢中になっていました。次のルイ14世は様々な芸術家を庇護し、演劇やバレエ、音楽も盛んになります。ところが、肝心の国王がルーヴル宮殿を去ってヴェルサイユ宮殿に移ってしまいます。ルーヴル宮殿はそのため、徐々に廃れていきます。

そして、この時代に誕生したいくつかのアカデミーの拠点として生かされることになりました。最初は1635年にできたアカデミー・フランセーズ、その後、王立絵画彫刻アカデミー(1648)、舞踏アカデミー(1661)、碑文・文藝アカデミー(1663)、科学アカデミー(1663)、王立音楽アカデミー(1669)、建築アカデミー(1671)が次々と作られました。アカデミー・フランセーズは1672年から、王立絵画アカデミー、建築アカデミーは当初はパレ・ロワイヤルを拠点としていましたが、1692年にルーヴルに移りました。科学アカデミーは1699年に拠点を移します。

ルーヴル宮殿はこのようにいくつかのアカデミーの拠点となるだけではありませんでした。芸術家たちの住まいや作業場としても利用されるようになり、18世紀には徐々に宮殿としてのステータスが低下していきました。しかし、18世紀半ばに、中断されていた「大計画」が再び動き出し、クール・キャレ(ルーヴル美術館の東の部分)が完成します。

1779年には、歴代の国王が収集した美術品の展示場所としてルーヴル宮殿を美術館にするというプロジェクトが始まります。

しかしこのプロジェクトはフランス革命(1789年)によって中断を余儀なくされます。しかし、1790年、国民議会は一度は破棄することを決めた芸術作品を保存し、一般に公開するという方針に舵を切ります。1791年5月に憲法制定国民議会がルーヴル宮殿を「あらゆる科学、芸術が集められた場所」とする法案を可決することになりました。

1793年11月に大衆に開かれた美術館として開館します。ただ、開館当初は、ダヴィッドをはじめとする特権を受けた芸術家が美術館内に住んでいただけでなく、絵画の展示方法もまったく分類されておらず、「床から天上まで所狭しと」作品がかけられているだけでした。その後、1801年に展示方法が年代順に変えられ、美術館らしい姿となりました。

ナポレオンは、ヨーロッパ諸国との戦争の過程で各地から美術品を略奪し、美術館の収蔵品を増やしていきました。ナポレオンが失脚してから、略奪された国々からの求めに応じて返還されるものもたくさんありましたが、ヴェロネーゼの『カナの饗宴』など、一部の作品はフランス側のコレクションとの交換という条件でルーヴルでそのまま展示されることになりました。

ナポレオンは、さらに、リヴォリ通りに面してセーヌ川沿いのグランドギャラリーと同等の建物の建築を計画します。この建物は1865年に完成します。

ドノン翼にある「モナリザ」が展示されているスペースと、ダヴィッドの巨大な「ナポレオン戴冠式」の展示してあるスペースもこの時期に建てられたものです。

西の端にあったチュイルリー宮殿が1871年に焼失します。そのため、カルーゼル広場の凱旋門からエトワール広場の凱旋門が一望できるようになります。

1981年には「大ルーヴル計画」が始まり、1989年にガラスのピラミッドができます。この時の工事の過程で中世の頃のルーヴルが発掘され、その一部をシュリー翼の地下で見ることができます。リヴォリ通りに面した建物は長くフランス財務省が入っていましたが、ここもルーヴル美術館の展示室となりました。

MH

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