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パリ7区を歩こう

パリ市の行政区は20区。第1区はルーブル美術館、チュイルリー庭園、シテ島の一部などがある区だ。そしてここから始まり、かたつむりの渦のように外側に向かい、時計回りの方向に並んでいる。最後の20区は北東の外れにある。そして屡々言われるように、そのひとつひとつの色も臭いも違う区が20集まってはじめてパリなのである。

その色も臭いも違いのある区として私は7区のことを書いておきたい。その理由は、かつてのお屋敷街であり、その後官庁街へと姿を変え、国民議会、首相官邸、外務省、農務省、教育省、そしてかなりの数の大使館もあり緑も多い。更にこの20年ほどでレストランが増え、それも人気レストランばかりなのだ。

そして7区と言えばエッフェル塔があり、その下にはシャン・ド・マルスと言う大きな空間がある。シャン・ド・マルスとは軍神マルス(ローマ神話における戦と農耕の神)の野、と言う意味だ。だからその南東側にはエコール・ミリテール(陸軍士官学校)が隣接している。そしてこの場所は 1867年の第2回パリ万国博覧会を最初として1937年までに5回の国際博覧会が開催された場所でもある。

ここから北東にモット=ピケ通りを10分歩くと オテル・デ・ザンバリッド(廃兵院)=軍事博物館/ナポレオンの墓所 がある。ルイ14世は対外侵略戦争を絶え間なく行った。そのため傷病兵を受け入れる施設として造られた建物だ。この建物の正面はセーヌ河側だが、モット=ピケ通り側にはひときわ目立つドーム教会が建っていて、この地下にナポレオンの棺がある。つまりこの教会はナポレオンのお墓である。そしてこの建物全体を見学しようとすれば更に奥に入っていくことができ、そこにかなり広い中庭がある。

この場所で時々国葬が行われる。フランスの国葬は暗い陰鬱なものではなく、その人への敬意を強く表現する。この四月には俳優ミシェル・ブーケの葬儀が行われた。このように政治家ばかりとは限らず、文化・芸術家などを時の大統領が選出して国民の合意を見ながら葬儀を行う。他方、建物の中は軍事博物館となっており、フランスの古代から現代までの武器や軍事品が展示されている。

さて、オテル・デ・ザンヴァリッドを出てセーヌに向かってすぐ右側のヴァレンヌ通りの角に、ロダン美術館(Musée Rodin)がある。

「近代彫刻の父」と呼ばれているロダンは19世紀末から20世紀の始めにかけて活躍した。ここはロダンの住宅兼アトリエであった建物で、「ビロン館」と呼ばれている。18世紀にこの建物を所有していた将軍の名前にちなんだもので、その後19世紀に入って聖心修道会の所有となり、20世紀の初頭に修道会が建物を手放したため、ジャン・コクトー、アンリ・マティス、詩人のリルケなど、時の芸術家たちがビロン館を借りるようになる。ロダンはリルケの紹介によってこの館に入りアトリエを構えたのである。

1911年、ビロン館は国の所有となるが、ビロン館から離れたくなかったロダンは自らの作品とコレクションした美術品とを国に引き渡してそのままここに暮らし、1919年、ロダン美術館がオープンした。しかしロダン自身は完成を見ることなく1917年に亡くなっている。

ロココ調の建物は、美術館というよりまるで大きなお屋敷に足を踏み入れたような感じがする上、ロダン美術館は、その見事な庭園でも知られている。後でも触れるが、この7区は、広い庭を持つ建物が実に多い。それもそのはず、パリ左岸の西の果て(パリの街は徐々に広がって行った)は広大な野原だった。その土地を利用してお屋敷が建って行ったという歴史があるためだ。

広い芝生に並木道。庭園のあちこちにロダンの作品が据えられていて、中でも、「地獄の門」や「考える人」、「カレーの市民(Les Bourgeois de Calais)」のような特に有名な作品がこの庭の中で見ることができる。

ロダン美術館を出て右へほんの3分ほど歩くと右側にフランス首相府(首相官邸)オテル・マティニヨンがある。警備の警察官がいつも2名立っているのですぐ気が付くが、この道は静かで何の変哲もない。こんな所に首相官邸があるのだ。なおフランス大統領官邸はシャンゼリゼのクレマンソー広場を北に入ったエリゼー宮である。ここ首相官邸の庭も広く美しいことで知られている。月に一度一般公開しているが中々入れない。

さて、オテル・マティニヨンの前を通り過ぎるのを止めて少し後ろに戻るとヴァノーと言う細い道がある。この道を左に入る(南方向)。横道がなくてバビロヌ通りまで真直ぐ続く。つまりオテル・マティニヨンの敷地はその位置まで続いているということになる。その大半が庭、庭園だ。あのせせこましいパリの街でどうしてこんな広い庭が取れるのだろうと思ってしまうが、先にも書いたようにこのあたりは広大な野原だったからだ。この小さな交差点を左に行くと(東方向)右側にカトリーヌ・ラブレ庭園がある。ここでもう一度この辺りの広い庭園があることに誰もが驚嘆することは間違いない。

私の好きな7区の街歩きもそろそろ終わりに近づいて来た。もう一度バビロヌ通りに戻り更に東方向へ1分。フランスの百貨店の老舗であり、大規模小売業を広めた百貨店ボン・マルシェに到着する。

昔からフランスには世界初の、とか、新発明、とか数々のユニークなものを作り出してきた。その数はあまりに多い。その中でもこんなものを作り出した夫婦がいた。 ブチコー夫妻。

世界初のデパートメントストアを創り出したのである。そういうものは一見アメリカ発ではないか、と思いきや、実はフランスの名も無き夫婦が創り出したものなのである。古来から商売とは売り手が客の顔を見て値段を決めるというように、ものの値段はあってないようなものだった。ブチコー夫妻が7区バック通りに小さな店を手に入れると、1852年、革新的な商法で商売をはじめた。利益率を下げて「定価制」を始めたのだ。店の名前も「ボン・マルシェ」(安いの意味)。この画期的な商法が当たり、更にものを安く売るだけでなく店員のサービスを徹底させた。これまで売り手市場だった世界を反転させたのだ。そして年2回のセールやカタログ販売まで始めた。つまり今の小売りビジネスの原型がここにある。

ところでここで少し逸れるが、初めての万国博覧会は1851年のロンドンで開催された。それに刺激を受けて1855年にシャンゼリゼを中心に最初のパリ万国博覧会が開かれたのである。この時の主催者である帝国委員会(皇帝ナポレオン三世の時代)は、より良いもの優れたものを出展させるために、褒賞として金銀銅のメダルを授与した。その判定の基準の中に、「価格引き下げによって広範な消費への道を開いた場合」、と言う項目がある。

つまり価格を明示せよ、と言う意味だ。これはブチコー夫妻がすでに取り組んできたものだ。時代はそこまで来ていたのである。

百貨店オ・ボン・マルシェはバック通りを挟んで今も変わらず営業をしている。そして店の前のラスパイユ大通りまで続く緑が茂る広場の名前は、この夫妻の名前から、ブチコー広場 である。

パリ7区を歩いてきたが、レストランのこと、国民議会のことなど興味深いことが数多くあるが、続きはまた別の機会に。

(下線の部分はパリ・ミュージアム・パスで入場できる施設)

 

GK

 

 

 

 

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