セーヌ河はパリを離れて何度も蛇行を繰り返しイギリス海峡に流れ込むが、その2回目の蛇行の下側底辺のすぐ東側にマルメゾン城がある。
マルメゾン城と言えば皇帝ナポレオンの妃、ジョゼフィーヌが最後まで暮らした城である。
ジョゼフィーヌはフランス領マルティニーク島(カリブ海)の生まれで、祖父の代にフランスを離れた砂糖農園主の娘で正式名は、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie)と長い。ジョゼフィーヌという呼称は後年ナポレオンからそう呼ばれたからだ。
その後パリへ来て、1779年、16歳でアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚、ウジェーヌとオルタンスの2子を生んだが、娘オルタンスの息子が後のナポレオン三世だ。
マルメゾンの名前の由来は、10世紀に頻発した北欧からの侵略者ノルマン(ヴァイキング)が吃水の浅い船でセーヌを遡り、パリの手前のこの場所を巣窟としたことに関連している。ラテン語「マラドムス」(悪い家)は1244年に初めて歴史文献に出てきて、その後14世紀にラ・マルメゾンの名前が再度現れている。記録の上では1390年に、この土地はシャルル6世の守衛官ギヨーム・グデによって購入され、1763年まで彼の子孫に受け継がれてきた。1771年に裕福な銀行家、ル・クトゥール・デュモレーが買い入れ、マダム・デュモレーは当時流行りだった文学サロンを開いている。その後フランス革命が勃発し、1799年4月21日にジョゼフィーヌ・ボナパルトが325,000フランで買い取った。1800年から1802年にかけて、この小さな城はパリのチュイルリー宮殿とともに政治の中心となり、ナポレオンの大臣達が頻繁に集まる場所になる。
1802年からしばらく皇帝とジョゼフィーヌと子供たちはサン・クルーの宮殿で暮らしたが、ジョゼフィーヌはこのマルメゾン城が特に気に入っていたことから、しばしばここに戻って建物や広大な庭の整備や手直しを繰り返した。ジョゼフィーヌの言葉どおり、この土地を「ヨーロッパで最も美しく興味深い庭園、よき洗練のモデル」とすることに精力を注ぎ、世界各地の珍しい幾種類の外来動物なや植物を熱心に収集した。
1809年、皇帝との離婚時、皇帝は彼女に城内のすべてのコレクションと共に財産を与え、1814年5月29日に亡くなるまで彼女はここに暮らした。息子ウジェーヌはそれを相続したのが、彼の未亡人が1828年にスウェーデンの銀行家に売却した後、1842年、スペインのフェルナンド7世の未亡人であるマリア・クリスティーナが取得して彼女の住居とし、1861年にナポレオン3世に転売した。 1870年のプロシアとの戦争時、城への兵舎の設置によって被害を受けたこの場所は、その後紆余曲折があった後フランス文化省の管理となり今に至る。
このようにジョゼフィーヌによる城の整備や庭の手入れがなされたその記憶は、そのまま現代に引き継がれ、その広大な庭はフランスの「特筆すべき庭」に指定されている。
フランスはその自然の豊かさ自体が既に世界でも「特筆すべき」であると私は思っているが、それを上回る程素晴らしい自然があるというわけだ。だからただお城を見に行くのではなくて、マルメゾンに限らず行った場所全体をゆっくり歩いてみると、パリとその周辺、更にはフランスの豊かさを感じられるはずだ。
なお、この城の現在の正式な名称は、「シャトー・マルメゾン・プレオ森国立博物館」
ところでマルメゾン城はリュエイユ・マルメゾン市の中にあるが、この町と千葉県東金市とは1990年、姉妹都市提携をしている。東金市の広報に尋ねると
「リュエイユ・マルメゾン市とは、東京電力東金営業所の方が、パリに出向いた際、空港にてリュエイユ・マルメゾン市民の方と出会われたこと、当時のリュエイユ・マルメゾン市長が日本との交流を望んでいたことがご縁となり、姉妹都市を締結させていただきました」
との丁寧な回答があった。 http://www.city.togane.chiba.jp/0000001336.html
さて題名のなぜ「印象派」なのかだが、ここから西へ3km弱のところに印象派の聖地、ブージヴァルがある。
「光と水と大気を表現しようとした印象派はセーヌ河を必要とした」と言われるが、自然豊かで、近くにセーヌが流れるこの辺りは印象派の画家たちに好まれ、風景を描いた幾多の作品がある。
そういう意味からも、パリから車で30~40分。電車やバスを乗り継いでも1時間もかからないこの辺りは、絶好のパリ郊外の散歩コースだと思うのだ。
GK